1853年に艋舺八甲庄(剝皮寮の近く)で起きた抗争「頂下郊拼」の際、同安出身の若者38名が霞海城隍爺を守って大稲埕へ逃げました。彼らの武勇を称え、三十八義勇公(三十八名の英雄)として祀っています。ご利益は旅の安全と有形無形の敵を追い払うということです。
│General Shi Lang │Taiwan Robin Hood - Liao Tian-ding│
1621年生まれ。鄭成功の抗清軍の将軍。城隍爺の故郷・霞城を1662年に開き、兵士の訓練を行ないました。故郷の町を開いた偉人です。
1883年、台湾中部生まれ。日本統治時代、台湾人に対する不平等な扱いに不満を抱き日本政府に抵抗。富裕層が住む城隍廟のある大稲埕を拠点に金持ちから盗んだ金銭を貧しい者に分け与えていました。こうして、日本の高圧的な政策の下、台湾人の希望の星となり、「義賊」と呼ばれるようになりました。盗んだ金銭は城隍廟の神棚の下に隠し、翌日、貧乏人に配ったそうです。
旧暦5月13日の城隍爺生誕祭は、毎年大勢の見物客で賑わいます。その昔、見物中の若い女性が相次いで熱中症で亡くなりました。美女を愛する城隍爺によって天に召されたのではないかと人々は噂しました。そこで、城隍爺に夫人を迎えることにし、1894年9月4日、城隍夫人の像が納められました。今も昔も「男は外、女は内」という考えがあります。大稲埕の女性は夫が出歩かず家庭を顧みるよう城隍夫人にお願いするようになりました。今は女性だけでなく、夫婦で幸福の靴を買い求め参拝する姿も見られます。
日本統治時代、日本政府は台湾人に仏教を信仰させるために、旧暦7月26、27、28日に先祖の霊を供養する仏教行事「盂蘭盆」を始めました。こうして台湾ならではの仏教道教混合が始まりました。ご利益は知恵と心の平安を授かるということです。
|